川魚食文化について

大阪は東に摂津・河内の平野、そして西は大阪湾(難波海・武庫海・茅渟海)に面している。 そして摂津と河内の中央を琵琶湖に端を発した淀川が縦断し、河内平野には大和盆地の川水 を集めた大和川が流れ込んでいた。また和泉には「古事記」などにも記録されている日本最古の 「狭山池」があり、河内・和泉には集落ごとに灌漑用ため池があった。これらの河川やため池 で生育した淡水魚、自家用消費というより換金食糧としての役割も担っていた。これらの淡水 魚介は堺を通じて大和盆地などへ運ばれていった。 また天正十一年(1583)から築城がはじまった大阪城の北側では、古大和川跡井路川(寝屋川) と平野川が大川(旧淀川)に合流する処(中央区京橋前の町:京橋のたもとあたり)で川魚の 商いがはじまり、その後は京橋北詰へと移転し「鮒市場」となっている。さらに慶長二十年(1615) には大阪夏の陣が終わると、大阪復興として「鮒市場」はさらに規模を拡大した「京橋川魚市場」となり ここに一大、川魚食文化が培われた。さらに日本料理の観点から川魚を見るなら、淀川水系から生まれた 京都・大阪・大和などの川魚食文化は、日本料理のルーツのひとつであるといえる。今ここに、 廃れ滅びつつある川魚食文化を見つめ直し、川の恵みを今一度、暮らしや社会の中に活かしていく ことの大切さを考える時期に来ているといえよう。